子供を見ると泣く

年を取ったせいか、最近ドラマや映画に子供が出てくると、それだけで泣いてしまう。

先日映画『怪物』を見たのだが、序盤子供が動揺しているように見えるシーンですぐに泣いてしまった。

また、特撮で子供がパワーを送っているシーンを見たときも泣きそうになった。子供の頃はそういうシーンが苦手な子供だったのに。

自分が泣ける映画を見ようと思ったら、子供がたくさん出てくる映画を見たらいいのかもしれない。

映画『迷子の警察音楽隊』を見た

エラン・コリリン監督の『迷子の警察音楽隊』。

ストーリーとしては2日間の話だが、ゆったりしたテンポで進んでいく映画。

最初の方は、イスラエルの何もない鄙びた空港や道路の広い空間を撮っている。

そして辿り着く田舎町にも何もない。

でもその中にも人はいるし、その土地で親しまれている音楽はある。

人はなぜ音楽を演奏するのだろうか。その場にいる人と一緒に歌ったり楽しんだりするためなのか、ただ退屈だからなのか。

伝統音楽を演奏する人たちは何となく遠い存在に見えがちだが、作りかけの曲やみんなが知っている現代音楽などで、一瞬気持ちが通じあったりするところが、生きている音楽の存在感を感じた。

本来会う機会が無い人たちが会って、もう2度と会話をしないかもしれないながらも、お互いの事情を知ったり親切にしあったりする、そういうことは日常でもよくあるが、そういうことも映画になるんだなと思った。

最初はお互いに知らない人たちでも、事情や人となりを知れば気になるし、親切にしようとする、そういう過程を描きたかった映画なのかなと思った。

音楽ストリーミングサービスを使ってみて感じたこと

以前はあまりストリーミングサービスで音楽を聴いていなかった。

理由としては、アーティストに少ししかお金が入らないという記事を読んだこともあったし、作品ごとにお金を払いたいという気持ちが大きくてサブスクリプションに抵抗があったからというのもあった。

でも、今はCDを再生する機械が壊れているというのもあって、ストリーミングサービスで音楽を聴いている。

使ってみるとやっぱり便利だなと思う。

それまではシンセポップのような曲はあまり聞いていなかったが、今はよく聴いている。ストリーミングは、アルバムをちょっと聴いてみるのも途中でやめるのも自由なので、私のように自分の音楽の好みがよくわかっていない人にとっては、自分の好きなジャンルやアーティストを探すのには向いていると思う。

CDでアルバムを買って聴いたり、特定の音源のデータを購入して聴くのとは少し違う感覚もある。

CDやデータでアルバムを買って聴いていると、やはり自分が音源を所有しているという感じがある。ストリーミングで聞いていると知り合いか家族のCD棚から気になったCDを借りて聞いているような気持ちになる。

ストリーミングサービスにKings of Leonの『Walls』があったので、久しぶりに聴いてみたが、発売当時に思っていたよりもいいアルバムだなと思った。ちなみにこの『Walls』も既にCDで購入しているアルバムである。

結局思い入れの部分で違うと言いたいのだけれど、自分の場合、CDというモノを所有しているかどうかというよりは、音源そのものを購入したことがあるかどうかという経験で思い入れの違いが生まれているようだ。

映画の場合はDVDで購入して見るのとストリーミングで見るのとは、感覚的にあまり変わらない気がする。本も買って読むのと借りて読むのでは感覚的に変わらない気がするので、音楽だけそう感じるのは不思議な感じがする。

映画『ジョーカー』のエキストラ

2019年に『ジョーカー』という映画が公開され、3回見た。3回目に見たときに、後ろに立っているエキストラが気になった。

 

アーサーの家に向かう道で、郊外に入っていくと、黒人やアジア系が住んでいる地域がある。ただ、アーサーが住んでいるところはさらにそこを通り抜けて長い階段を上ったところで、あまり人が通らない。

アーサーの家では風呂でもラジオを聞き、母親のベッドでテレビを見る。テレビ番組が収録されているのは同じゴッサムシティの中心部だが、華やかでどこか遠く隔たった場所に見える。

アーサーは同じアパートに住んでいる女性を尾行すると、銀行のある通りに行きつくが、その辺りには身なりのいい女性が歩いていたりする。

ピエロの格好をしたアーサーが電話をかけるシーンでは、背景に娼婦のような女性が立っている。

初めての殺人の後に走って逃げるシーンの背景にはドラム缶で火にあたっているホームレスのような人影が見える。

この映画ではアーサーの行動を追いながら、その背景にエキストラを映すことで、人種や経済状態によってそれぞれの地域に分かれて暮らしているゴッサムシティの有り様を映像で描いている。

似た境遇の周囲の人々とうまく交流できず、テレビやラジオの華やかな世界に浸っているアーサーの様子は、自分が仕事に就けなかったときのことを思い出させられて身につまされる。同じ街には活躍している人がたくさんいるのに、自分が社会にうまく関わっていけないことで、孤独と無力感を感じていた。この映画では周囲の街の雑音などがたくさん使われているのだが、それがアーサーの孤独を強調している。

最後のシーンではピエロの仮面をかぶってデモ参加者が大暴れするのだが、ピエロの仮面をかぶることで人種や身元がわかりにくくなった人々が町の中心部で暴れる様子には、格差によって秩序づけられていた街が混沌としていく様子が象徴的に描かれていると思う。

 

 

仕事を教えるときに自分が教えられたときの教え方で教えてしまう

 タイトルがこんがらがってしまったけれど、自分が教えられるときにあまり事前に説明がなかった部分に関しては、自分が他人に教えるときも説明しないで放置してしまう傾向があると思う。

そういう部分は、そもそもマニュアルがなかったり、「このように対応すべき」という共通の認識がないのでうやむやになってしまうのだと思う。

仕事で引っかかりやすい部分はみんな同じなのに、どこで引っかかったのか記録せずに忘れてしまっているのもある。

ただうやむやになっている部分をはっきりさせて、マニュアルなどに明文化しておかないと、同僚に対する質問が増えてしまい、効率が上がらないし、ミスが増えてしまう。

正直マニュアル作りは時間がかかるので、あまり参加できていなかったが、今後は参加したい。

 

 

ご挨拶

なんだかとても大げさなユーザー名を付けてしまった。

なぜLeonを付けたかというと、Kings of Leonというロックバンドが好きだから。

今後は音楽のこと、映画のこと、本(小説)のことを書いていくかもしれません。